4.タイ人の人間関係 〜ピーとノーンの連鎖

タイ人の人間関係は、「ピー」と「ノーン」という関係性を基本としています。

「ピー」は年上・目上、「ノーン」は年下・目下の人のことです。それはそのまま呼び名としても使われており、先輩などを呼ぶ時には「ピー」と呼びます。「ピー」は単なる年上というだけではなく、尊敬・敬いの意味の意味が含まれます。ピーとノーンの関係性とは、単に年齢の上下というだけではなく、ノーンはピーを慕い、ピーの配下にあり、ピーはノーンを庇護するという関係性があることを含んだニュアンスになります。日本語で言えば、「兄弟分」つまり「アニキ」と「舎弟」の関係、水商売の女性が先輩としての尊敬を込めて「お姉さん」と呼ぶような関係になります。

職場の中の上司と部下が、必ずしもピーとノーンの関係性とは限りません。それは、この関係がフォーマルな組織上の関係性ではなく、インフォーマルな個人間の関係だからです。ピーはノーンの面倒を、仕事上だけではなく個人的な問題を含めてみる。それに対してノーンはピーに対してできることをして返す、という個人ベースの人間関係があって、ピーとノーンの関係になるからです。このピーとノーンという言葉は、封建社会における「御恩と奉公」という関係性だと考えれば、一番しっくりきます。

このピーとノーンの関係性は、タイ人の集団の中では自然と形成され、それが重層的に繋がったものが、タイ人の社会だと言えます。たとえば、タイでは日本のように社会保障がしっかりしているわけではありません。国民健康保険に相当するものはないため、会社の正社員以外の人は無保険状態なので、病気になると大変です。こういった場合にも、ピーと慕われている人が、本人も決してお金を持っているわけではないにも関わらず、病院への支払いなどを含めて面倒を見てあげている、ということをいくつも見てきました。それに対してノーンのほうは、必ずしも出してもらったお金を全額返済するというわけではありません。ノーンなりに自分のできることを何でもして、その恩を返していくということになります。

これはよくあるケースなのですが、タイ人が困っているのでお金を貸してあげるとします。しかしいつまでたっても、貸したお金を返してくる気配がない。それは、彼らはお金を借りたからお金を返さなければならないとは思っておらず、受けた恩は自分のできることを精一杯することで返すものだと考えているからなのです。そんな、タイ人が「普通である」と思っている人間関係の常識を知らない日本人からすれば、「借りたお金を返さないでよく平気でいられるな。なんて厚顔無恥なやつなんだ」と思ってしまいます。

こういった人同士の縦のつながりが、人間関係の基本となりそしてそれが重層的につながることで、タイという社会を作り上げています。

たとえば一つの集落があったとしましょう。ある人は田んぼを開墾し、米を育てることができる。またある人は、魚を獲ることが上手い。魚を獲ることのうまい人は、自分の食べる分以外は人に分け与える。これは、物々交換の経済というわけではありません。魚をもらったからそれに相当する米を返すということではなく、それぞれが自分のできることをするのです。集落の中には、田んぼを切り開く力もなければ魚も獲れないひともいることでしょう。そういう人であっても、村の中でピーとノーンの重層の内側にいれば米も魚も分け与えてもらえるのです。そしてその人は、面倒を見てもらった御恩のある人の言うことはなんでもきいて、できる限りのことをして返すのです。たとえば、御恩のあるピーの言うことをきいて、水田に水を引き込む灌漑設備の土木工事で肉体労働を提供したり、稲の刈り取りを手伝ったりすることになります。

こうやって、集落の中でのピーの中のピーが、村の長となっていくわけです。そしてその関係は、近隣の村の間でも成立するようになっていきます。すなわち力のある集落(ムーバーン)の庇護下に力の弱い集落が入っていき、周辺の集落を束ねて「くに」(ムアン)となっていき、そしてその領主が政治権力を得ていくことになります。さらには、「くに」(ムアン)の間にも庇護するものとされるものの関係ができていき、やがては大国家となっていくというのが、タイにおける国家の成り立ちとなります。その時の王に力があれば、例えばスコタイ王朝時代ではラムカムヘン大王の治世(1279−1299)にはその勢力は現代のタイからミャンマー、マレー半島全域にまで及んでいたものが、王が代わり力がなくなると遠方の国々は従属するのをやめ、その威光の届く範囲が小さくなるという、「マンダラ型」の国家が形成されていったのです。(参考文献:柿崎一郎著「物語タイの歴史 微笑みの国の真実」)

こういった、稲作を基本とした封建体制の成立は、日本の歴史とも大いに重なるものです。ですから、タイ人の人間関係に対するメンタリティーは、基本的には日本人に近いのです。ただ違いもあります。それは、日本では貴族社会の後に武家社会が長く続き、奉公の対象が「人」から「お家」に変わっていったことです。そしてその「お家」への奉公というメンタリティーを、会社というものに置き換えて、日本人はいまだに持ち続けているのだと言えます。一方のタイ人には「お家」の概念はなく、あくまでも奉公の対象は恩を受けた「人」なのです。

ですので、力を持った「ピー」が会社を辞めてしまうと、それに連なる「ノーン」たちが連鎖的にやめてしまうということが起こります。彼らのロイヤリティー(忠誠心)は会社ではなく人にあるからです。ですので、タイ人の中にあるインフォーマルな組織とも言えるこのピーとノーンの関係性を、よく見極めておく必要があるのです。

忠誠心を持つ対象が、「お家」や「会社」ではなく「人」であるということは、上長である、社長であるといったポジションがあるからといって、必ずしも精神的な従属関係にはならないことを意味します。つまり、あなたが上長だからといって、それだけでは人はついてはこないのです。あなたが上長として部下たちに「ご恩」を与えて初めて、部下たちは「奉公」を返してくれるのです。それは王様であってさえも同じなのです。2016年に崩御されたラーマ9世プミポン王が国民の絶大なる尊敬と敬愛を集め、誰もが国王の意向に従う絶対的権力を持ちえたのは、その治世中に国民に対して絶大なる恩恵を施したからであり、単に「国王」という地位にいたからというわけではなかったのです。

公的権力と私的権力

前述のように、タイ人同士の組織には、会社の組織図に表されるフォーマルな組織とピーとノーンの関係の連鎖によるインフォーマルな組織との二つが、同時に存在しています。そしてフォーマルな組織とインフォーマルな組織の上下関係が一致している場合には単純ですが、一致していない場合も多々あります。その場合には、組織図上のボスを説得したとしても、インフォーマル組織のピーが納得していない場合には、組織は動きません。そこで、タイ人の組織をマネジメントする場合には、このインフォーマルな人の繋がりがどうなっているのかを把握し、そのボスとのコミュニケーションをよくしておくことが大切です。

インフォーマルな組織のボスは往々にして、会社のいうことを聞かないやっかいものとして日本人マネジメントの目に映ってしまうことがあります。一般のタイ人は、グレンチャイ(遠慮)の精神を強く持っていて、日本人以上に「空気を読む」人たちです。日本人のあなたがボスなのであれば、あなたの言うことは「カップ(はい)」といって聞き、それにたいしてあなたに直接不満や文句を言ってくるタイ人は少ないでしょう。しかし表立って言ってこないからといって不満や文句がないわけではありません。そしてその不満は、フォーマルな組織のマネージャーたちではなく、インフォーマルな組織のピーたちが知るものとなります。そこでピーたちは、自分に連なるノーンたちの声を代表して、矢面に立って会社に文句を言うことがあるのです。そういう時に「こいつは会社に対して文句の多い不満分子だ。やっかいものだから排除すべき」と判断してしまうということが起きがちなのです。しかし、そのピーの言うことは、不満分子そしてその人間の個人的な意見ではなく、みんなの意見を代表しているのかもしれないのです。そこを見極めずにそのピーを冷遇するようなことをすると、そのピーだけではなく連なるノーンたちが、雪崩を打って辞めてしまうと言うことが起きるのです。ですので、職場の中でピーの立場にあるのは誰なのか、それに連なるノーンたちはどういうメンバーなのかをよく見極め、ピーの立場にあると思われる人たちには、日頃から特に声をかけて話をするようにしてコミュニケーションを取ることが必要です。あなたがもしこのピーたちから「敵認定」されてしまうと、あなたの仕事は大変にやりにくいものになります。

ではインフォーマルな組織のピーたちは、どのような人たちなのでしょうか?

古今東西の多くの組織でボスになる人たちには、いくつかの類型があります。一つのタイプが「怒らせると恐ろしい」人たちです。怒らせると恐ろしいので周りの人間たちが言うことを聞くようになり、ボスとしての力を得ていき、その力で支配するタイプです。しかし、タイではこのタイプのボスは多くありません。タイ人は、人間の価値を「徳(ブン)の高さ」で測るという価値観を持っているからです。これは、タイの文化の基礎となっている上座部仏教(いわゆる小乗仏教)における人間の価値を表しています。タイ人の94%はこの上座部仏教を信仰しています(出典:外務省タイ王国基礎データ令和元年9月)。日本に伝わった大乗仏教では、僧侶が修行をして経をとなえることで皆を救うという考え方ですが、上座部仏教(小乗仏教)では、一人一人が「徳(ブン)」を積むことにより、徳を積んだ本人が救われると言う考え方です。そしてその「徳(ブン)」は、じぶんより立場の弱いものを助けることで積まれます。ですので、人の上に立つものは、食べるものや生活に必要な個人的なことを含めて下の者の面倒を見ることになります。逆に言うと、ボスが下の者の世話を焼いたり食事を奢ったりすることは、「自分のため」にやっているということになります。奢られるものからすると、自分が奢られることでボスに「徳を積ませてあげている」ということにもなるのです。「タイには乞食と野良犬が多い」と言われます。実際どちらもびっくりするほど多いのですが、それは徳を積みたい人たちとの間で需要と供給が成り立っているからです。乞食からすると「徳を積ませてやっている」わけで、「タイの乞食は威張っている」とよく言われる所以です。ここで、ボスたちは、自分の配下の人間の面倒を見ることができますが、社会の最下層にいる人たちはどうやって徳を積むのでしょうか?それは、動物に対して親切にすることによって徳を積むことになります。あなたの会社のまわりに野良犬が居着いてしまうのは、雇っている警備員が、夜食のために買ってきたガイヤーン(焼き鳥)を野良犬に分け与えて「タンブン(徳を積むこと)」していることが原因かもしれません。

タイ人の価値観の中で、「徳の高い人」はすなわち「面倒見のいい人」ということになります。逆に、怒りの感情を表すことは「徳の低い」行為だと見なされますので、怒ることで言うことを聞かせようとすると、その場では怖いからいうことを聞くかもしれませんが、徳の低い人間だと認定されることになります。それでは彼らのインフォーマルなボスになることはできないのです。ですので、タイには部下たちを助けることで徳を高くし「御恩と奉公」の関係の中で人を従わせるタイプのボスが多くなります。

では日本人である我々が、社員たちから徳の高い人間であると思われるためにはどうすれば良いのでしょうか?そのためには、社員たちに対して徳を積む(タンブンを行う)ことが必要になります。

たとえば社員たちと食事に行ったとします。その際に、タイでは割り勘にするということはほとんどなく、一番立場の上の人間がまとめて払うことが当たり前のことです。その際に、領収書をもらって会社の経費で落としたのでは意味がありません。自分の財布から出してこそ、タンブンになるのです。タイでは、忘年会やソンクラン休み前に会社全体で集まって宴会を開いたり、社員旅行を行うことが多いです。それを社員たちはみんな楽しみにしており、そういうところは日本の昭和時代の会社のありように近い雰囲気があります。そしてそういうイベントこそ、ボスにとっては徳を積むチャンスです。たとえばイベントで社員が歌を歌ったり踊ったりしたときに「おひねり」をあげたりします。それはそれで結構な出費になりますが、そこで気前よくいかないと、徳の低い人認定をされてしまいます。また、社員の親が亡くなったりした時に葬式に出席する、結婚式に出席する、といったことも、社員に対するタンブンになります。

私の勤務先がタイでの立ち上げ時に雇った人事のマネージャーが、その辺が特にうまい女性でした。会社内のキャンティーンに炊飯器とコメを用意し毎日メシを食わせてやったり卓球台を設置して休み時間に使わせたりということを、すべて自腹で行なっていました。最初は私も「必要があれば会社で買うのだから、自分で払うことはない」と言っていたのですが、彼女にとってはそれを自腹で行うことが重要であり、会社が出したのでは意味のないことだったのです。そのうちに、彼女が出勤してくると現場の人間が一斉に迎えに出て彼女のカバンを運んであげるなど、現場の人間たちは彼女に対して尽くすようになっていきました。そして彼女はタイ人に対して抑えの効く、タイ人のボスとしての地位を手にするようになりました。このような公私混同の振る舞いは、日本の会社であれば眉を顰めるべきことなのかもしれません。しかしながら現場を抑える力のある人事マネージャーがいたことは、私にとって大変に心強いことであったことも確かです。また、タイにおいては「公」の部分だけで仕事をしていくことはできず、「私」の部分を抑えてこその「公」なのだということも、彼女から学ぶことができたのです。

タイは階級社会

タイ人のメンタリティーに大きく影響を与えているものに、上座部仏教の教えとともに、サクディナー制(位階田)という国の仕組みがあります。

タイでは、日本では平安時代に取られていた位階田(サクディナー制)が、近代(1932年)まで存続していました。タイで土地の広さを表す「ライ」という単位はこの位階田制に由来しています。1ライは田んぼ1枚を表し、日本でいう1反ということです。日本の1反(300坪)が990平米であるのに対し1ライは1600平米ですから、タイの田んぼの方が若干広いですね。

タイ全体の土地は国王の所有物であり、その使用権を身分に応じて分け与えるという考え方で、奴隷は5ライ、平民は15ライ、最高は副王の10万ライというようにその広さが身分を表します。武家社会の石高と基本的に同じ考え方ですが、石高が武士のみに与えられるものであるのに対し、サクディナーは王族から奴隷まで、全体の所有者である王以外の全ての人たちが対象であるという違いがあります。また石高が実際の米の取れ高を表しているのに対し、位階田は「それだけの広さの田んぼを開墾する権利を王から認められている」という意味であり、実際にそれだけの田を所有しているというわけではありません。その人の社会における階級をあらわすためのものです。

現代ではサクディナー制は廃止されましたが、タイは現在でも完全な階級社会であると言えます。現代では学校で良い成績を取り、大学を出ることでサラリーマンとして出世すると言う道ができてはいます。しかし、階級の壁を突破することができるのはほんの一握りであり、大半の人たちは、生まれた階級から抜け出ることはできません。その理由の一つは、タイの税制にあります。

タイの税制が日本と大きく違うのは、資産課税がほとんどないことです。長年の懸案であった土地に対する固定資産税は、2019年にクーデター後の軍政体制の元でようやく導入されましたが、税率は極めて低くそれも商売用の土地のみへの課税で、住居は課税対象ではありません。また相続税もあるにはありますが、1億バーツを超える部分にのみに5%の課税がなされるだけであり、日本のように相続すると財産がなくなってしまうようなことはないのです。また、株の売り買いや利息など、キャピタルゲインに対しては、原則非課税です。

また、タイ人の実業家同士が商売をする際には、所属している階級が重要になります。なぜなら、階級が違えば持っている価値観が違うため、相手のことが信用できないからです。ですので、タイでのビジネスは基本的にブルジョア階級の中で行われるために、それ以外のところからそこに参入することは困難なのです。タイでは、すべての富の半分を、5大財閥と言われる一族が所有していると言われるように、日本では考えられないくらいの格差社会・階級社会なのです。

会社の中においても階級の格差が現れがちになります。特に製造業の場合には、事務所の人員は大卒、現場人員は中卒か職業学校卒といった学歴格差があり、それはそのまま彼らの出自の差であることが多くなります。そのため仕事に対する考え方にも差があり、お互いを理解できない、あるいは敵視しあうことで社内が割れてしまうということが起こりがちになります。実際に社内における給与の格差は、日本の会社であればせいぜい2−3倍程度にとどまるのに対し10倍ほども差が出てきますので、それもやむを得ないことだと思われます。そしてこのへんの彼らの心の中にある機微を理解してマネジメントを行うことは、日本人のマネジメントだけではなかなか困難であると言えます。タイ人は日本人以上に「グレンチャイ(遠慮)」が強く表立って文句を言うことが少ないだけに、なおさらくすぶる火種を見過ごしてしまうことになり、気付いた時には取り返しのつかないところまで行ってしまっているということになりかねません。ですので、現場の長でも人事のマネージャーでも良いので、タイ人の心を束ねる「ピー」の存在が必ず必要です。ここには多少給与が高くても、経験豊富かつ太っ腹な重量級の人材を配置することは、タイにおける人事政策上の要であると言えます。

中小企業診断士

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です